和子20歳
サンフランシスコのCity collegeへ入学した。
プレイスメントテストと言われる適正テストが行われ、英語力と数学力が試される。自分の学力レベルにあったクラスに入ることが出来る。
私はこの手のテストでいつもさんざんな思いをしてきた。日本でもそうだった。文章や数字に想像を膨らませてしまうからなのか、時間内にテストが終わった試しがない。
案の定、英語は下から2つ目のクラスに入ることになった。数学も同じく下のクラスで、夜間の授業を履修しないといけないと告げられた。
どちらも日本の高校を卒業していたら、まずその判定をもらう事はない。
英語の授業の初日、
教室のドアを開けるとそこは「中国」だった。サンフランシスコは移民の街。
入った途端に中国語で話しかけられた。クラスのほとんどが、移民で、アメリカに来たばかりの若者か、初めて英語の勉強をする中年層だった。おじいさんやおばあさんもいた。
クラスで初めて英語の文を書いた日、先生に呼び出され、プレイスメントテストをもう一度受けるように言われた。そりゃそうだ、クラスはとても簡単だったし、留学生は大抵、2年間でここのカレッジを卒業して4年制大学へ編入するのがお決まりだ。このクラスは何の必修科目にも該当しない、傍から見れば、お金と時間の無駄なのだ。
でも、私は先生のオファーを断った。
【日本の大学を退学し、カナダの語学学校からアメリカの大学を受験し、受かった大学へ見学に行って、ここじゃない!と思い大学の目の前の公衆電話からキャンセルして、サンフランシスコのここのカレッジを見つけた。でも、入学が間に合わず、約1年空白ができるというので、日本に戻って車販バイトをしていたら、ここのカレッジから連絡が来て、空きが出た!ということで2週間でビザを用意して飛び込んできた。】
私はこれまでの自分の慌ただしい一年を振り返り、先生に言った。
「4年制大学へ編入したいです。でもこのクラスを終わらせてからプレイスメントテストを受け直します。」
私には生活を立て直す時間が必要だった。
それに、このクラスを履修して数週間で中国文化にすっかり溶け込んでしまったのだった。
朝、クラスに入ると、中華街に住む自分の両親ぐらいの年齢の女性が、温かい肉まんや点心を私に食べなさい食べなさいと差し出す。顔色が悪いと言われて、瓶に葉っぱの浮いたお茶を飲め飲めと無理やり飲まされたこともあった。
高校の時に中国人の友達の家にホームスティに行ったことがあり、中国に興味があった私には嬉しい環境だった。アメリカに暮らしながら、中国にも留学しているようだと思った。
私はケーキやブラウニーを焼いたりして彼らと食の交流を楽しんだ。
卵の香りが強いお菓子は、香りを加えないと美味しくないわ!これはパサパサしていてまぁまぁ!と彼らの歯に衣着せぬ物言いに引かれた。この経験はその後、「食」を仕事にすることになった私にとって大きなプラスとなった。
履修期間の約半年はあっという間に過ぎ、
その後、私は上のクラスに入った。
そして、彼らとも会わなくなった。
私は、自分の事で忙しかったし、大家さんの都合で急に住んでいる家を引っ越さないといけないこともありバタバタと過ごしていた。
そんなある日、
引っ越し先が決まり、後は荷物を運ぶだけ!の状況まで来ていた私は、学校のカフェテリアで勉強をしていた。
すると、次の大家さんから急に、
他の人に貸すことに決めたと携帯に連絡が来た。何の信用もない留学生、こういう事は仕方がないが、電話を切ると何かが吹っ切れたように涙が出てきた。
また振り出しだ。テストも近いしどうしよう。
もしかして…私と一緒に借りる予定だったマレーシア人のあの女性もキャンセルされたのかな…
すぐに一度しか会ったことのないルームメイトになる予定の女性に連絡を取った。
彼女もキャンセルされていて、2人で次の家を探すことになった。
学生ではなく、法律事務所で働く彼女のおかげですぐに次の家を探すことが出来た。
しかし、今度は引っ越し直前になって、荷物を運ぶ準備ができていないことに気がついた。車は持っていない。私は徒歩で何往復もすることを覚悟した。
そんな時に、キャンパスを歩いていると、初めの英語のクラスで出会った中国人の学生に再会した。
最近どうしている?
という話から、引っ越しの話になった。荷物を歩いて運ぶ話をしていたら、彼は、分かった今週末だね手伝うよ!と言ってくれた。
嬉しかった。ずっと連絡すら取っていなかったのに、悪いなとも思った。
当日、
私は玄関のドアを開けて驚いた。
彼は前のクラスメイトを数人連れてきてくれていた。
胸が熱くなった。
荷物は車に詰められ、あっという間に運ばれた。
新しいお家の大家さんも中国人だった。2階に住む大家さんに、一番年長のクラスメイトの男性が中国語で挨拶をしてくれた。
「和子は自分の娘みたいに大切な子です」と言っていると他のクラスメイトが笑って教えてくれた。
嬉しかった。
寒い日だったのに温かかった。
彼らが帰る時に、私はお礼をしたいと言った。丁度お昼時だったので、近くの中華料理屋さんでご馳走させてくれと。
すると、みんな首を横に振った。
学生の私にご馳走なんかなれないよと笑っていた。
それでも、私は何かをしたい気持ちで黙って考えていると、
「君が誰かに同じことをすることがお礼だよ」と言われた。
「なんでこんなに良くしてくれるの?」
と聞くと、
「僕たちは、同じ米を食べて大きくなった仲間じゃないか!」と返ってきた。
彼らを見送り、私は運ばれたばかりの布団に抱きつき声を出して泣いた。
「同じ米を食べて大きくなった仲間」
なんて良い言葉だろう。
中国人の心の広さと仲間を大切にする心に気付かされた。
プレイスメントテストでしくじらなかったら、出会えなかった仲間。大切な仲間。
自分にうまく出来ない事があるからこそ、経験できたこと。思い通りに事が進まなかったからこそ、助けてくれた仲間の存在が大きかった。
私だけが彼らの言葉を持っているのはもったいない。だから私は今日この話を書いた。
この言葉で誰かの心を温めることが出来たら嬉しい。
私の胸には今でも、
「同じ米を食べて大きくなった仲間」と書かれた掛け軸が年中かけっぱなしになっている。