人と食

人と食のエピソード。笑って泣いてカリフォルニア。

涙で漬けるピクルス

恐ろしい日々だった。いつもヘラヘラ笑っているけれど、そうでもしていなければ立っていられなかった。正気ではいられないから笑っているしかなかった。

枕を濡らした夜は数知れず、ここが痛い、辛いはあえて言うこともなく、調子が悪いのがデフォルトでそれが日常になってしまっていた。

こんな話は私らしくないけれど、ピークは越えたのではないかと思うし、私がそうだったように、経験は伝えることで、必要な人のこころを軽くすることができるから書こうかなと思う。

胆嚢摘出

昨年、40になる直前に胆嚢摘出の手術を受けた。胆嚢が随分前からひどい状態だったと理解する間もなくすぐに手術を受けることになった。その2年ほど前から時折脂汗をかくような痛みがあったけれど、痛みにめっぽう強いので、これが胃痛とかいうものなのかな〜食べすぎたかなぁ年取ったんだなぁ〜なんて呑気なことを考えていた。いや、かかりつけの医師には腹部の何かがおかしいと相談していたのだけれど、「胆嚢」という場所の特定に時間がかかってしまった。時間がかかったのはコロナ禍で緊急性がないと自分で判断したせいも一理あるが、1番の理由は、私の身体の10年間があまりに色々ありすぎて、他に疑うべき箇所が多々あったことだと思う。

長くなるを覚悟の上でまとめてみる。

 

髄膜炎

子供達が3歳と1歳の夏に酷いウイルス性髄膜炎になった。ここはアメリカ、ERへ行っても、髄膜炎は治療も薬もないから家でゆっくりしなさいと数時間で帰されてしまった。(日本では数週間の入院)ウイルス性髄膜炎は細菌性よりも予後が良いと知り安心したのも束の間、当時はまだ下の子の授乳をしていて、いきなり授乳を辞めたことで重度の乳腺炎にもなってしまった。髄膜炎と乳腺炎のダブルパンチで続く高熱。そんな中とても奇妙な体験もした。三途の川ではなくて、寝室のドアの上にある小さな本当には見えないドアを開けたくて手を伸ばしていた。あれはなんだったのだろう。

その後、3歳長男が風邪で高熱、夫も髄膜炎、1歳次男が首にしこりができて首が動かなくなり、髄膜炎の夫が自らの運転で息子と病院へ通うという日々が続き、ただの風邪だった長男だけが元気になってそれがまた大変だという状況に。

私はその後も6ヶ月という長い間、光が眩しくて吐き気がしたり、耳が聞こえにくくなってしまった。

1番困ったのは大分起きていられる時間が長くなった時に、上手く歩けなくなってしまっていたこと。  ERでした髄膜炎の検査の時に、背中から注射器を刺して髄液を抜いたのだけれど(腰椎穿刺)どうやら何かの神経に触ってしまったのか、2回行われた検査のどちらかに問題があったのかもしれないとかなんとかで…頭の痛みが尋常ではなくてその時の説明を全く覚えていない。その後何度か腰や足の精密検査をしたが、原因が分かる前に徐々によくなってしまいなんだったのかが分からないが、とにかく3歳と1歳を抱えて歩きにくいのは困った。痛いというよりも感覚がおかしい感じが長く続いた。もう一生このままかもしれないと、自分の涙でピクルスが作れるのではないかと思うほど毎晩泣いた。

髄膜炎になった時は引越しをしたばかりの時で、頼れる友達も近くにいなくて、お互いの両親も家族も日本。唯一、当時SNSで日本語を話す子供向けにプレイデートの会を私が主催していて、そこに参加してくれた方、直近で公園でたまたま出会ったママさんや引っ越しを手伝ってくれたお兄さんなど、そんな人たちが食事を届けてくれたりして、感謝しても仕切れないほどの手助けをしてくださった。ありがたい。本当に有り難かった。

 

バセドウ病

髄膜炎の不調が治る頃、心臓がなんか痛い!が始まった。常に小さな動きでドキドキして、頭が痛くて、朝起きたらとても疲れている。そしてとにかく歯が痛い!とりあえず歯医者さんに行って診てもらったが虫歯がないという。諦められなくてまたすぐに歯医者さんに行ってここを治療してくれ!と頼んで詰め物を変えてもらったりしたが良くならず、日本への一時帰国の際にも懲りずに歯医者さんへ行って、それでも治療する歯はないと断言された。そんな中、それ甲状腺疾患かもよ!同じようなことがあったから!と身内から助言を受けた。早速、アメリカに戻って血液検査をすると、明らかにバセドウ病の数値だった。歯が痛くなるのは寝ている間も身体が強張っていて噛み締めている可能性が考えられるということで、それが歯が痛い=頭痛の原因だと判明。試しに食いしばり軽減の為に作ってみたマウスピースは、驚くことに数週間も持たずに穴が空いてしまった。食いしばる力の強さに驚いた。

心臓がなんか痛い!頭が痛い!の医師への訴えは「酷い髄膜炎でしたから後遺症かもしれませんね」で片付けられていた。はじめの異変から1年以上でやっと見つかった病気。バセドウ病には薬を飲めば大丈夫だと言われ、薬を試すが、まさか0.3%の人にしか起こらないという重篤な副作用を起こしてしまった。服用すると白血球がだーんと下がる。薬の服用という選択はなくなってしまった。私に残された選択肢は、甲状腺摘出で投薬をするORアイソトープという放射性ヨウ素治療。アイソトープを選び、それが功を奏し、数ヶ月かけて(ゆっくり効く)甲状腺の数値が落ち着き、症状がとても良くなった。心臓の痛みに対しては、どんな痛みだったかすぐに忘れてしまったほど効果があった。

だが、そこから数年経つと、今度は甲状腺の数値が落ち着きすぎてしまい、今までアクティブに動いていた甲状腺ホルモンが今度はおしとやかになりすぎてしまい、身体が適応できなかったのか、乾燥で身体に痒みが出たり、すぐに疲れて寝てしまったり、便秘やめまいが続いた。そしてその時期に世界がコロナ禍へ。

自分のことは後回し。

ずっと不調を抱え、胃痛や嘔吐も加わり、流石にこれはまずいのではないかと思い精密検査を受けると十二指腸にポリープが見つかった。大きさもあったので、除去してバイオプシーの結果が出るまでは生きた心地がしなかった。「十二指腸 悪性」とどれだけググったか分からない。結果は良性で安堵した。

だが問題は解決されず、症状は変わらない。子供達の学校も1年以上オンラインの自宅待機になっていたことも加味され「ストレス」と診断された。

事故

学校が再開した頃には腹部の鈍痛のようなものまで加わったので、おかしいと思い婦人科を受診した。婦人科は問題がなく安心して学校のお迎えに行ったその日、ハプニング発生。止めていた車から降りる直前に後ろから爆走してきた大きな車に突っ込まれ、車の中で飛び上がり左膝をハンドルに強打。シートベルトをまだ外していなかったことが幸いし、頭などを打つことはなかったが、車は廃車になってしまった。私の後ろの車をかなり擦ってから私の車に突撃してきたことで、衝撃が吸収されたことが不幸中の幸いだった。

事故後すぐの夏休みに日本へ一時帰国した際には、飛行機の揺れがどれだけ首に負担がかかるかを体感した。2人の子供を連れて乗ってしまった飛行機で、首の置き所のない痛みにあぁどうしようと涙した。身体の反応は後からくるものだとそこで思い知った。頭痛を伴わない閃輝暗点も出ていた。アメリカに戻り、そこから数ヶ月、鞭打ち症状改善のリハビリを受けた。腹部の症状などは後回しになってしまったが、アメリカのフィジカルセラピーを体感することができたのは良い経験になった。

ぐるぐる診断期と気づき

事故の後遺症が良くなると、やっぱり具合が悪いぞと思い出した。日々の忙しさや子供達の野球など楽しいことに紛れてしまいがちだけれど、ふと、自分の身体に耳を傾けると、何かが違う。眠りも浅くなってきていたので、また医師に相談した。すると、今度はスリープセラピーを勧められた。睡眠時に呼吸が浅いのかもしれないとのことでモニターをつけて眠ることに。結果は睡眠の質に全く問題なし!そうなればまた診断は逆戻りで「ストレス」という診断を受けた。またか!と落胆した。

私にとっては原因が分からないこの症状を何年も持っていること自体がストレスだった。

そして、次に「精神科」を受診してみてはどうだろうかと医師に打診された。そこではっ!と目が覚めた。違う!こころは元気だ。べらぼうに元気。私は自分のこころと身体のクオリティーが一致していないことにそこで気がついた。正に、ランボルギーニのエンジンを搭載したダンボール製の車、それが私である。自分で気がつくと事の進みは早い。わたしのことはわたしにしか分からない。

そこからエンジン全開で自身の研究が始まった。毎日自分の症状をメモして、メモの中から繰り返される言葉を探した。「腹部の違和感」がその一つで、医師へ超音波検査を依頼した。もう受け身ではない。度々修理が必要な自身のハードウェアのポンコツを認め、熱いハートのソフトウェアで舵を取る覚悟が定まった。

胆嚢摘出と後遺症

驚く勿れ、腹部に超音波を当ててわずか数十秒で検査技師の手が止まった。胆嚢がおかしい。あれよあれよと摘出手術をすることに決まった。コロナ禍で緊急性のない検査をするのに数ヶ月待つ状態だった為、展開の早さに驚いた。

手術の直前に、バイタルを取っていた看護師に「宇宙飛行士になれる」と言われたぐらい、手術に向かう私の気持ちは落ち着いていて、むしろ原因が分かり晴れ晴れとした気持ちだった。嬉しくて仕方がなかった。担当の外科医には、摘出した胆嚢とその中身の写真を撮って欲しいとお願いした。術後にその写真を見て感動してしまった。昔、教科書で見た白くてイガイガしたコレステロールの胆石とは違う、真っ黒で真珠のようにまん丸い胆石がいくつもあった。思わず「タピオカ!」と声が出てしまった。丁度巷で大流行中のタピオカがin my タミー!

胆嚢はなくても大丈夫な臓器だし、取ってしまってもしばらく辛いけど大丈夫よ〜なんて周りからも助言を頂き、とってスッキリ〜!とすっかり調子に乗っていたわたし。それが、まさかの1年以上続く後遺症との戦いのスタートだったとは…

その後、油っぽいものなどは取らずにいても、いきなりお腹を壊したりし始めた。それが、何を食べたらこうなるというものが分からない。1日の大半をトイレで過ごす日もあり、予定も入れられない。反応は人それぞれ。まさかこういう副作用が自分に起こるなんて思いもしなかった為ダメージが大きかった。これは未だに完治していないので私の自己研究は続く。

ここ1年

そこから、いくつか気になったところを医師に話し、この10ヶ月で3箇所の検査をしたが、全て精密検査に進む芳しくない判定だった。きっと大丈夫という自信とその事を家族にも伝えずにいた怖がりな自分がいた。心配されるのは苦手だ。私の不調でみんなの日常が崩れるのはもっと苦手だ。不安でまた枕をピクルスにする夜もあった。

最近、その3つ目の結果も出て、全て命に関わることではないと分かり、また晴れやかな気持ちになった。結果が出るまでの無力感と頭の中が検査の結果に支配される感覚は経験してみなくては理解できないものだった。新しい心を知ることが出来た。

そして、この経験を周りに伝えなくてはと思えるようになった。

無理は一生の後悔となる

「無理をしていたつもりはない」

無理をする人はみんなそう言うらしい。私も例外ではない。

この10年の葛藤は、そもそも髄膜炎から始まった。ウイルスが髄膜に入るということは、大人しくしていた症状や病気を表に出すきっかけになることがあるらしい。髄膜炎になる数週間前に私の身体は大きなシグナルを発していた!それを完全に無視してしまったことを私はとても悔いている。

シグナルとは、エステでオイルマッサージを受けて、次の日に背中一面に赤いできものが出来たのである。病院へ行くと普段は見かけない医師に「免疫が下がっているからこうなるんですよ!」と喝を入れられた。この湿疹は自分で自分を攻撃している状況だと説明を受けた。ここ最近何をしていたかを聞かれたが、その時期の私は、引越しの片付けを授乳時間の落ち着く夜中にしたりと、まとまった睡眠を取らずに過ごしていた。しかも直近1週間に子供達と動物ふれあいファームや遊園地なども訪れていて、明らかに無理な日々を過ごしていた。3歳と1歳の元気な息子たちをくたくたにさせて、少しでも夜に長く寝てくれることしかその時の私は考えていなかった。あの時、休みなさい!too muchだ!と警告を鳴らしてくれた医師の話にもう少し真剣に耳を傾けられれば良かったと後悔している。可能ならば、自身を無敵のランボルギーニだと過信していたワタシに「そのボディーはダンボール製よ!ボディーが壊れたらエンジンだけでは走れないんだから!」と平手打ちをかましてあげたい。

育児はそれほど盲目で、一心不乱に一生懸命になってしまうものであった。何が無理しているのかも毎日が初めての連続だから気がつけない。

どうか近くにこういう方がいたら、休み方も知らないと思うので、半ば強引に休ませてあげて欲しいと心から思う。

 

振り返ると恐ろしい年月を過ごしてきたけれど、それでも私は自分のことをラッキーだと思っている。強がりではなく、これには正当な理由がある。

これまで、あまりに良い人たちと出会い、たくさんの特別な経験をし、好きな場所で好きなことをしながら楽しいだけでここまで来た。だからこのぐらいの身体の不調があっても仕方ないのではないかと思ってしまうのである。このぐらいでむしろラッキーである。

それと、最愛のおじいちゃんがマッキと呼ばれる状況に陥った時、中学生の私は毎晩毎晩祈っていた。「地図帳に載っている世界中の人が信じる全ての神様、どうか、私の寿命を縮めてでも、おじいちゃんに明日を与えて下さい」その願いは届き、4ヶ月という長い明日をおじいちゃんと過ごすことが出来た。その奇跡を私は今でもとても感謝している。だから、自分に起こる不調に対して何故?という気持ちが起こらない。むしろ、世界中に借りがある身としては、何故生かされているのかの方が興味がある。

流した涙の意味はなんだろう。きっと自分に必要なものに違いない。それを知るために、この青い空の下で笑って泣いて生きていく。涙で美味しいピクルスを漬けてしまおうという気持ちで。

 

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