人と食

人と食のエピソード。笑って泣いてカリフォルニア。

お正月の記憶

気が付けば1月5日!

おせち料理も残すところ後わずか、昆布巻きだけになってしまった😭さみしいなぁ。

お正月はやっぱり日本人にとって特別なものだなぁと感じる。

 

お正月の記憶

幼い時、クリスマスが終わるとすぐに我が家はお出汁の香りに包まれた。

お台所の窓はいつも曇っていてそこに絵を描いて遊んでいた。寒い廊下には鍋やタッパーが並び、その量がピークを迎えるのが大晦日だった。

母の御節はお重箱に詰められているイメージがない。椎茸の甘煮だけで一段分ぐらいの量だった為、きっとお重に詰めていなかったのだと思う。ざっと20人前のお料理を一人で作っていた母は活気に満ちていた。おてんばな食いしん坊だった私は母の御節作りを手伝った事がなかった。祖母が母に日本茶を入れて休憩しているタイミングで参加していた。美味しいおやつが食べたくて!

「お義母さ〜ん!ヤクが切れたわ〜」

と母が祖母に言うと、祖母が「あら、大変!」とケラケラ笑いながらお茶を入れる。

 

元旦の1日は我が家のチームワークが一番発揮される日だった様に思う。朝、ポストに来た年賀状の束を祖父の部屋に持っていく前に、ダイニングテーブルの上に祖父と父宛の束を並べ、手のひらを当てて、「今年もお爺ちゃんの勝ち!」と言うのが私の担当だった。「お爺ちゃん!今年もパパよりも多かったよ!」と祖父の部屋へ届けると、祖父はいつも「サンキュー!」と受け取った。

姉たちも何かお手伝いをしていたと思うが思い出せない。父はお酒の確認に余念がなかったと思う。

親戚や祖父の知人が挨拶にいらっしゃると、いつものお家がワッと膨らむ様な気がした。

時々外へ出て従兄弟姉妹と遊び、戻ってくると、部屋の中がもわっと温かく、みんなの声が一段と大きくなっていて、「何して遊んでたの?」と各大人に聞かれ、その度に、「はーねーつーきー!」と大きな声で答えていた。毎年これをコントの様に繰り返す。

 

母のお正月料理の中で一番好きだったのは「お煮しめ」だった。何が美味しいかったのかは明確ではないが、とにかくいつもの煮物とは違う美味しさがあった。

f:id:hitotoshoku:20220106154858j:image

なので、今年、長男が御節の中で里芋が一番美味しかった!と言ってくれたことが私は何よりも嬉しかった。写真は2日のお煮しめ。元旦よりも味が染みていて美味しい!

 

お正月、親戚やお客様が帰られる時、2階に上がっていても必ず下から呼ばれた。「帰られるわよ」と言われると、ダダダとみんなで降りて来て、玄関にあるサンダルやら母の靴やら、自分の靴ではない履き物をつっかけて、お見送りに出る。

お爺ちゃんが、「角を曲がるまでお見送りしなさい」と言う。角を曲がるのを見届けて、小さな礼をする。

そして、ダッシュで玄関に戻り、

「もなかー!」と言う私に、お婆ちゃんが「和ちゃん!」と笑う。もなかとは、空也の最中のことで、毎年お客様がお持ちくださるものだった。

「まったく、和子は〜!」とみんなに笑われながら、お爺ちゃんが、仏様が先!と言うので、お仏壇はなかったけれどそれらしき場所に置き(早く食べてくださいと)拝んだ。そして、お爺ちゃんの方をチラッと見ると、「よしっ!」と言われ、すぐに開封し数を数えた。

本当に私はいやしい食いしん坊だったと思う。三つ子の魂百まで、今もさほど性格に変わりはない。

うちのご先祖様はマッハ数十秒のお供えに慣れているとお爺ちゃんは笑っていた。今はそのご先祖様の一員に加わってしまったお爺ちゃん、私はここアメリカで、心の中でいつもお供えしていますよ。

f:id:hitotoshoku:20220106162337j:image

お爺ちゃんの好物の寛平を見ると手が止まる。

寛平で昆布を締めながら「会いたいな」と涙が出た。

今年も昆布巻きの寛平は細くする事ができなかった。手巻き寿司の時と同じ太さで煮た。

手巻き寿司をすると寛平巻きを孫に巻かせていたお爺ちゃん。それをあまりに美味しそうに食べるので私にとって寛平はいつもお爺ちゃんに捧げるもの。

手が止まり、お爺ちゃんを思い出す。そして、心の中で必ずこう言ってから食べる。

「お爺ちゃんのパンツのゴムいただきます!」

祖父は私が寛平好きにならぬよう、取られぬように、それはパンツのゴムだと言い放った。

書いちゃった。

これをお正月のエピソードとしてここに加えたことで、祖父は今頃、天国でお酒を吹き出していることと思う。