結婚当初、天然酵母で作るハード系のパンにハマっていた。
ドライイーストを使わずに、バナナ、レーズン、いちごなどから作った酵母でパンを焼いていた。
日当たりが悪く、狭くて温度が一定なアパートのキッチンが良い酵母を育ててくれ、実験室のようで楽しかった。
しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
ある日、数ヶ月の長男とリビングで食事をしていると1匹の蜂に目が止まった。
え?網戸の隙間から?と思い窓を確認するときちんと閉まっていた。食卓に戻ると2匹、3匹と増え始め、
これは何かがおかしい!と思ったら、
あっという間に部屋中が蜂だらけになった。
長男を抱きかかえ、貴重品やおむつなどをまとめて部屋を出ようとするが、長男はブーブー唾を飛ばしながら手を叩いて蜂に喜んでいる。
まずいまずい!この子が刺されたら大変だ!
私は長男を抱っこ紐で前に抱え、ほふく前進をしながら玄関のドアを開けた。
ドアを閉める時に、キッチンに出しっぱなしのいちご酵母の瓶が目に入った。
「今日、かき混ぜなかったら酵母が…」
そう思いつつドアを閉めた。
天然酵母はかき混ぜるタイミングが重要。
理想の苺に出会えて大切にしていたあの瓶。
蜂をかき分け持ってくるのはリスクが大きすぎる。一度天然酵母にハマった人ならよく分かると思うが、毎日お世話をする酵母は家族のように愛おしい。近くに友達もいなかった私には特別な友人のような存在でもあった。
外に出て主人に連絡をすると、職場からすっ飛んで来てくれた。今なら「頑張れ!」の一言しか言わなそうだが、当時はまだ私をか弱いと思っていたのかその行動は早かった。
アパートの管理人さんに連絡を入れ、その日は近くのモーテルに宿泊する事になった。
宿泊中、アパートの管理人さんと近所の方が部屋の中の蜂を網で捕獲してくれた。小さな子供がいることを気遣い、薬を撒かなかったあの時のアパートの方々には今でも頭が下がる思いだ。
翌朝、蜂が洗濯乾燥機のダクトの中に巣を作っていたことが分かった。
主人はモーテルから出勤し、私と長男は昼過ぎにアパートから駆除完了の連絡がありアパートへ戻った。
アパートの外には蜂の巣ハンターのヒッピーなおじさんがいた。
「君のうちの蜂の巣素晴らしかったよ!これ、どうぞ!」と蜂の巣型のあのCMで見るような蜂蜜の塊をくれた。
ちょっと美味しそうだな、パンに塗って…
…天然酵母を思い出した。
キッチンに出しっぱなしの天然酵母を!
部屋に戻り、酵母を確認して撃沈。
丸2日かき混ぜるタイミングを逃した酵母は
静かにしぼんでいるようだった。
「家族がみんな無事で良かった。
でも、できれば酵母も無事なら良かった。」
その夜、私の思いを主人に伝えると、
主人は笑いながら、「俺、前からあの酵母気持ち悪いと思ってたんだ。シュワシュワしてるし。」と言った。
続けて、自然派の甘酸っぱい酵母のパンも好まない事を知らされた。
その日から、我が家から天然酵母のパンが消えた。
今日もドライイーストで、私はパンを焼く。